第9回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト
 作文部門・最優秀賞受賞作品
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 『 無条件に自分を愛するチカラ』
        


                                                  小島 悠華

 死のうと思った。去年の春。
仕事に行き詰まり、食べることができなくなり、眠ることができなくなった。
半年ほど耐え続けたが、とうとう医師から抑うつ状態と診断された。
休職することになり、私は全ての自信を失った。
「自分なんて、生きている意味も価値もない。」と思った。
半年の間で「死のう」と決め、趣味だった本・CD・洋服・化粧品を捨てた。
遺書を書いていつ死んでもいいと思っていたが、身体が動かなくなるのが先だった。
実家に帰り、布団の上で天井を見つめる日々。
母から原因は何なのか、どうしてこうなったのかと何度も聞かれたが答えられなかった。
原因は一つではないと知っていたから。ずっと生きているのが辛かったから。

 私は中学2年生の頃から、「自分に自信を持てない」という気持ちを抱えていた。
ただ生きているだけで、「自分には生きている価値がある」と、どうしても思えなかった。
成績が良ければ良いのかもしれないと、猛勉強して学年上位へ上り詰めた。
休まなければ良いのかもしれないと、熱が出ても無理やり登校し続けた。
何か特技があれば良いのかもしれないと、作文で入賞したり歌声を披露して表彰された。
友だちが多ければ良いのかもしれないと、会話術の本を読み漁って人の輪へ飛び込んだ。
苦手なことを克服すれば良いのかもしれないと、大学生で接客のアルバイトを始めた。
しかしどれも自分の価値を実感するどころか、不完全さを痛感するばかりだった。
「自信を持ちたい」という素直な気持ちが、気づけば「自分は○○をできなければ価値が無い」という想いにすり替わって成長し、大人になっていた。
仕事で結果を出せば良いのかもしれないと、熱心に仕事をしたのが最後。
コロナ禍の打撃を受けたこともあり、思うように結果を出せなかった。
そこで肥大した「自分は○○ができなければ価値が無い」感情が猛烈に疼いて暴れ出し、心身を蝕んでしまったのだ。

 少し抑うつ状態が回復した頃、色々な本を読み漁っていた。
そこには「条件付けの自信を持たないこと」という言葉が書かれていた。
これができるから・これがあるから・これを持っているから、自分には生きている価値があるという自信のことである。私は今まで、条件付きの自信を持っていたと実感した。
「何かができる・ある自分」に価値を置いてしまうことには、リスクがあるそうだ。
できない自分、理想になれない自分を受け入れる「余白」がなくなってしまうから。
何もなくても、何もできなくても自分はここに生きていていいという感覚。
どんな自分も、自分自身であるということを受け入れる感覚を持つことが必要と本には書かれていた。そんな感覚を、人生で一度でも感じたことはあっただろうか。

 この社会を生きる上で感じることは「何者かにならなければ意味がない」という圧力だ。
有名になる・功績を遺す・他者に貢献する・他者より秀でた結果を出す。
それらができてはじめて、生きる意味があるという考えが蔓延しているように感じる。
うつ状態になった私も、長年そういった価値観に縛られてたように思う。
私はできない自分・何もない自分への無価値感や焦燥感を埋めるために必死に頑張ることができた。実際に結果を残したこともある。
これこそ条件付きの自信であり、条件付きの生きる意味だったため、私はいつまでも自分で自分を許すことができずに何をやっても虚しく、不完全で辛く苦しかった。
人生ではじめてうつ状態になり、私は私を許すことが必要で、無条件に生きていていいことを教え込むことが必要だと感じた。

 うつ状態の療養期間は、できない・理想になれない自分との戦いの連続だった。
自分を否定したり、責めたくなるたびに「それでもいい」「自分は今のままでいい」と言い聞かせた。それは簡単なことではなかった。
 何度も泣いて、何度も失望と感と絶望感に押しつぶされそうで、死にたい気持ちに駆られた。
今までやったことのない試みをしているから仕方ないと言い聞かせて継続した。
そんな戦いを経て休職3か月後、私はいつしか死にたい気持ちはなくなり、胸の中にじんわりした温かさを感じるようになった。できない自分を「まぁいいか」「別に大丈夫だ」「何があっても自分は自分である」と心の底から思えるようになっていた。そのおかげか、失敗することに対して前よりも寛容になったり、緊張する場面でも自分の気持ちに寄り添いながら冷静な対処ができるようになった。何より自分で自分を責めることを一切しなくなったことで、自分自身の本音を素直に聞き入れられるようになった。それは些細な変化のようだったが、私にとっては無条件の愛を知る第一歩に感じた。そこからさらに3か月経ち、私は社会復帰をしてまた働けるようになった。仕事で結果を残せなくとも、できることを積み上げていくことに集中すること。不安や恐怖に駆られた時は、立ち止まって「今、自分にどんな条件をつけているのか」を考え、苦しみを紐解くようになった。そのおかげか、再発は現在までしていない。私はようやく、条件付きの自信や生きる意味を解いて、無条件に生きていていいことの感覚を知ったような気がした。

 自分を愛することや無条件に生きていていいことを許すことは、この社会では馬鹿げたことだというような風潮があるように思う。私自身もそう思っていた内の一人だ。
しかし、人間は、いつか何もできなくなる時がやってくるし、ふいに何かを失う時もある。
その時に、条件付きで自分の生きる意味を見出していた人々は、生きる意味を失くしてしまうのではないだろうか。それならば、今からでも無条件に生きていていいことを自分で自分が知り、感じていくことが必要なのではないかと思う。

 今、生きることが辛い人、そしてかつての自分へ伝えたいことがある。
自分への失望や絶望は、「より良く生きていきたい」サインだ。
その気持ちは間違いではない。しかし、それによって生きることが苦しいのなら、できない自分を「まぁいいか」「別に大丈夫だ」という気持ちも持ってみてほしいと思う。
世界で一番自分を責めて否定しているのは、紛れもなく自分自身なのだ。
私自身、できない自分・理想になれない自分を受け入れることができず、何もなくても、何もできなくても自分はここに生きていていいという感覚を知らずに生きていた。
しかし、今は条件付きの生きる価値から、無条件に生きる価値に転換したことで自分を肯定して自分のあるがまま生きられることの解放感を感じている。
だからこそ言える。人と比べて落ち込んだり、情けなくなることはないし生きている意味や理由を探さなくていい。
何も成し遂げられなくても、何も持っていなくても、何もできなくても自分は自分として生きているだけで、十分であり、尊いことなのである。
何もかも便利で、より良い生活を求めるようになった現代だからこそ、無条件に自分を愛することが必要なのではないだろうか。
私は今日も、無条件に生きている。